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貫井徳郎「壁の男」解説 -完成しない「絵」と完成した「本」

友人にこの小説の話をしたら、「乃木坂46齋藤飛鳥もおすすめしてた」と教えてくれた。

あの雰囲気で本も読むの最高だな。調べたら大江健三郎なんかも読むらしい。素晴らしいですね。

彼女の目に触れるくらいバズりたいので結構真剣にこの小説の解説をしたいと思う。

表題で挙げた通り、貫井徳郎の「壁の男」について。解説と感想の間くらいのゆるっとした雰囲気で。

もし乃木坂ファンでこの小説にも興味を持った方がいたらぜひ読んで欲しい。とても良い小説です。

 

ここからは本作の重大なネタバレを含みます。最初から最後まで全て書いてあります。最後がとっても素敵な小説です。読んでいる途中の方は注意してください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本作はノンフィクションライターの「私」(鈴木)の一人称目線で物語が始まる。もっと言えば、全章がこの形式でスタートする。

だが、「私」の役割はわずか数ページで終わり、突然三人称での語りに切り替わる。この小説の「主人公」というべき「伊苅」目線だが、伊苅のことは「伊苅」と語られる。

「私」は村中に幼稚な絵が描かれている奇妙な村について興味を持つ。そしてその絵の張本人である「伊苅」と伊苅の周辺人物について調べ始める。

第一章は伊苅が初めて絵を描き、そしていかに村が絵で覆われたかについて語られる。ここまで読むといい話だなという感想を持つと思う。だが、この小説はそれだけでは終わらない。この小説の「深み」とも言うべき悲劇は第二章から始まる。

第二章は彼の娘「笑里」の闘病生活、そして死について語られる。ページを進めれば進めるほど悲しみと重みが読者にのしかかってくる。あまりに辛い。愛が深いからこそ悲しみも深くなる。彼の心の裡が積極的に語られる分、感情はダイレクトに読者に刺さる。闘病生活の一方で彼の妻である「梨絵子」が家を出ていくことがあっさりと語られる。このことについては、第三章で深掘りされる。

第三章では伊苅と梨絵子の馴れ初め、梨絵子との交際、そして彼女の悪癖について語られる。

第三章も第二章と同じく、喜びと悲しみが一気に切り替わる。梨絵子を糾弾したくなる一方、「伊苅もちょっと粘着質だよな…」なんて考えたくもなる。一方だけが全面的に問題があるカップルなんてほとんどないのかもしれない。

伊苅が梨絵子の浮気現場を目撃し、その説明を迫る場面がある。その際彼女は自らを「自己肯定感が極端に乏しい」ためと説明する。ここでは伊苅は彼女と付き合い続けることを選択するが、笑里の闘病生活が始まってからまたその気が再発してしまい、最後にはまた浮気を繰り返してしまい、伊苅と別れてしまう。

第四章ではまた場面が大きく変わり、今度は彼の少年時代について語られる。

絵の個展に入賞するほどの実力がある母と、それに嫉妬する父、さらに伊苅の同級生である、絵描きを目指す「堀越」との関係が描かれる。

同級生に笑われるほど絵が下手だった伊苅は、予想以上に絵の上手だった堀越に嫉妬してしまう。

そんな気持ちに気づいた母から以下のような言葉を投げかけられる。

才能の有無と人の価値は別問題。才能で人の価値は決まらない。何をしたかが大事だ」(要約)と。

この言葉で伊苅は「人と人との間にわだかまりを作るのは才能の有無ではなく、劣等感」だということに気がつく。

この言葉が、第三章の梨絵子との別れの理由とリンクする。自らに劣等感を抱いていた梨絵子は大手広告代理店に入社できるほどの稀有な才能を有していながらも、その劣等感を拭うことができず伊苅との間にわだかまりをつくってしまい伊苅、そして笑里と別れてしまう。

伊苅には絵の才能がなかったが、第一章で語られたように下手な絵を町中に施し、絵によって人を喜ばせることに成功している。この小説全体が第四章で語られる母の理論の証明になっているとも言える。

第五章ではそれをさらに裏付けるようなエピソード、そして物語最大の謎である「なぜ伊苅は絵を描くのか」について語られる。

「私」は伊苅の取材を通じて、この村を題材にした「本」を書く、という目標を立てていたが、十分な情報が得られなかったために断念してしまう。その代わりに、伊苅に絵を描いてもらうことを計画する。「私」もまた村人と同じように彼の絵に魅了されていたのである。伊苅は「仕事ではなく趣味としてなら描いてもいい」と了承する。そして「私」は完成した「絵」を見て、「思った通りのものだった」と語る。どんな絵だったかは読者には明かされない。

三人称パートに入ると再び伊苅の物語が語られるが、今度は突然、今まで全く語られてこなかった「澤谷」という人物との物語に切り替わる。

澤谷、そして澤谷の妻「美里」は不妊に悩んでいた。彼らを想った伊苅はお守りを彼らに贈る。その甲斐もあってか彼らは無事子を授かることになる。

そして伊苅が子どもの名前を彼らから知らされる時、きっと多くの読者が衝撃を受けたことだろう。自分なんかは、衝撃すぎて一回トイレに行って気持ちを落ち着かせたほどだった。

男の子なら康史、女の子なら笑里。そう、第二章で語られた伊苅の娘と全く同じ名前だ。

ここで何かを察した人は多いと思う。

無事産まれてきた笑里は、すくすくと成長するが、ある日突然、それを一変させる事件が起きる。なんと、両親である澤谷と美里が交通事故に遭って命を無くしてしまう。娘である笑里を置いて。笑里は養護施設に預けられる。

そしてラストシーン。ここもまた、全てを知った読者にとって胸にくるシーンだと思う。両親が死に、その現実を受け入れられず一人で遊んでいた笑里のもとに伊苅が訪れる。彼女は彼と会うと泣いた。ひとしきり泣いた後、絵を描いて遊んでいたという彼女から「なにかかいて」とせがまれる。絵を描くと笑里は喜んで上手だと褒めてくれる。

そしてこの小説の最後の一文がこうだ。

「笑里が笑うなら、いつまででも絵を描き続けようと伊苅は思った。」

最後の一文がこの小説の全てなのだ。

妻を失い、娘を失い、母を失った孤独な男が絵を描く理由。絵の才能を持たない伊苅が絵を描く理由。

上手くはない絵を描いて、初めは笑里を、そして彼女が亡くなった後は彼の塾の生徒を、そして村の人々を喜ばせた。

「才能よりも何をしたかが大事」

結果として、彼は人生をかけて母の言葉を証明することになった。

そして笑里のために「絵を描き続ける」彼の絵は、鈴木のためにも絵を描いた。小説の時系列内で最後に描かれた絵となった。

しかし、完成した絵はこの小説内では語られない。

つまりこの絵は語られない=小説上においては完成しないことになる。

なぜ完成しないか。それは、伊苅は「絵を描き続ける」からだ。笑里のために絵を描き続けているのだ。

 

また、一人称で語られていた「私」こと「鈴木」の「本を書く」目標は「諦めた」と語られていたが、実は達成されたのではないかと考えられる。

この小説内の伊苅を語る三人称の語り手は鈴木なのだと推測することはできないだろうか。

ここからは僕の完全な推測になってしまうが、この物語の続きはこのように考えられる。

絵を描いた伊苅と鈴木は意気投合し、仲を深めていく中で伊苅から過去の話、つまりこの五章から成る物語を聞くことに成功する。

そして、彼の物語を知った鈴木は読者に彼の物語を語る。かくして「私」の完成しなかった本は完成したーー。

そう読めばこの物語は「ノンフィクションライターに語られる物語」であり、奇妙な村があたかも現実に存在しているようでさらに面白みが増すのではないだろうか。フィクションとノンフィクションの境界が曖昧になり、あたかも奇妙な絵に埋め尽くされた村は実在したような錯覚に陥るのだ。

 

こうやって理論を並べると仕組みばかり目立ってしまうが、色んな意味で厚みのある小説だった。とても面白かった。

齋藤飛鳥さん小説の趣味良いですね〜〜。

もっとおすすめ本教えて欲しいです!!!

 

 

 

(注)このブログの引用部分は全て貫井徳郎『壁の男』(文春文庫)から引用しました。